一番楽しくて一番つらい、そんな旅だった。
日常生活であれば、何も変動が起こらないくらいの僅かな時間。
たった2週間のあいだに、私は数えきれない程の体験といくつもの出会いを重ね、
これこそが個人旅行の醍醐味だと改めて確信した。
中には忘れたい思い出もある。ただ、その全てが私の旅の証なのだ。
●イスタンブール〜アンカラ〜サフランボルへ
トルコ航空の2度のボーナスフライトを利用して、私達はトルコの内陸を乗合いバスで周遊する旅に出た。アンカラの空港を降り、ついにこの旅もスタートだと意気込んだのも束の間。長距離バスの発着所であるオトガルへ行くにも、その意志が伝わらない。トルコであまり英語が通じないことは知っていたが、ここは首都のしかも空港だ。私はバスの運転手に身ぶり手ぶり「このバスは本当にオトガルに行くのか」と確認した。どうやら運転手は「分かってるって。ところでお前は日本人か」などと話しているようだ。まあいい。これで意志の疎通がはかれたのなら。と、シートに深く腰を下ろすと、運転手がチェンジ。この状況、やはり日本とは違う。それでもバスは何とか約束通り、目的地に辿り着いた。
アンカラのオトガルからサフランボルまでは3時間半。トルコの長距離バスには必ずガイドが同乗する。彼らの役目は、1.乗客の座席確認をする。2.乗客の手のひらにコロンヤという香水を振りかけて回る。3.ドリンクを配る。こんなところだが、このドリンクサービスはチャイ、コーラ、オレンジジュースにスポンジケーキと、700円という運賃が信じられないくらいの内容。ただし、トルコのバスにはトイレ休憩が殆どないことも忘れてはいけない。高速道路と言っても、果てしなく続く荒野を走るようなもの。日本のそれとは比べものにならないのだ。
不安を抱えながらも、日没に近い頃、バスはサフランボルに到着した。よかった。これで暗闇の中のホテル探しは避けられる。私達は4km近く続くゆるい坂道を下った。旧式民家が積み木のように並ぶサフランボルの街並みが一面夕日に照らされていた。
ホテルはスムーズに決まった。木造の旧式民家を改築した、清潔なホテル。シャワールームも広いし、ベッドもダブルとシングルが1づつある。こうなると、斜めにゆがんだ階段もまた洒落た感じがするから不思議なものだ。おまけに20ミルヨン、ディスカウント成功とくれば、まずまずのスタートじゃないか。私達は小さな商店が軒を列ねる石畳の路地を歩いた。街の人々が笑顔で「メルハバ(こんにちは)」と声をかけてくる。時間も人ものんびりとしていて、イスタンブールと同じ国なのが嘘のようだ。
私達は月夜の下、ライトアップされた古びたハマム(トルコ風呂)を見渡せる広場のベンチに腰掛け、コーランの音色を聞きながら、ぬるいビールで乾杯した。
●サフランボル〜カッパドキアへ
寒くて眠れないイスタンブールでの生活が続いたせいか、夕べは久しぶりに熟睡した。だが、今日は一番長い移動日。のんびりしている時間はない。出発前にせめて写真をと散歩をしていると、ずっと後をついてきた一匹の犬が一件の家の前で立ち止まった。飼い主だろうか。スカーフ姿のおばさんがこちらに向って嬉しそうに手招きしているではないか。「コッチ、コッチ、コン(犬)も私モ日本人ダイスキ」久しぶりに聞く日本語だ。彼女の家に入ると、そこは日本人に人気の杖職人の宿で、台所では宿泊客が所狭しと団らんをしていている。すると、関西人らしき一人の女の子が話し掛けてきた。同じ目的を持つもの同志、初対面でも話題には事欠かなかったが、相手の旅は1ヶ月間。私のそれとは倍も違うのだ。そう気づくと、旅人気分だった私の声は急にトーンダウンした。杖職人の娘、ヤスミンに次のバスを手配してもらい、私達は慌ただしくこの街を後にした。
次に目指すカッパドキアには、サフランボルからの直行便がない。その為、私達はまず昨日きた道を3時間半かけて戻り、そこから更に5時間バスに揺られることになる。どれくらい経ったろう。まだどこへも停車していないというのに、何となく気持ちが悪い。気のせいであって欲しいと車内に流れる映画に、乗客の行動に、外の景色に、目をやる。だめだ、間違いなく酔っている。気分を紛らわせようと眠りについても激しく揺れ続けるこの状況では僅か1分で目が覚め、その後は2分間気持ちが悪い。この繰り返しがどれだけ続いたか、何度目かの目覚めの瞬間、私は嘔吐した。
バスが乗り換え地点のアンカラに到着したのは、それからしばらくしてのことだった。カッパドキア行きのバスは10分後に出発すると聞き、私は自分の体調を確認する暇もなく次のバスに乗り込んだ。それから先は言うまでもない。ドライブインで激しい嘔吐と下痢の繰り返し。頼みの綱だった酔い止め薬さえすぐに出てしまう。しかし、こんな荒野のまん中で降りるわけにもいかず、5時間ただひたすら時が過ぎるのを待った。
カッパドキアのオトガルに着いたのは日没直後だったと思う。待っていたセルヴィス(中心地行きのミニバス)に乗り込み着いた場所は、ホテルのあるギョレメから5kmも離れた別の街だった。外はもう暗く、冷たい風が吹き荒れている。私達は仕方なくタクシー運転手の希望通り、US10ドルを支払いホテルへ向かった。ガタガタと石畳を走るのに気づくと窓からは一面に真っ白な岩峰が広がり、目の前にはキノコ岩が無気味にそびえ立っている。その光景はいつか映画で見た世紀末のシーンそのもので、私達3人は取り残された最後の人類のようだった。
体調を崩したその日のホテルはUS50ドル。おそらくこの旅で一番の贅沢だろう。ギョレメ一の洞窟ホテルで玄関から寝室まではもう1枚扉があり、壁には遺跡を思わせるレリーフが刻まれた素敵な部屋だ。無論、ハプニングあってこその宿なのだが、実際にこうしてみると元気でないことが少し悔やまれる。チェックインの後、脱水状態だった私はホテルのレストランでフルーツの盛り合わせとフレッシュオレンジジュースをやっと口にした。それは私にとって、どんな特上寿司にも勝るスペシャルディナーだった。
●カッパドキア〜コンヤへ
広大な岩峰の広がるギョレメミュージアムから戻った後、私達は旅行会社で働くマリコさんの勧めでギョレメパノラマに行った。ピンク色に広がるローズバレーを眺めていると、その私をまた一人の老人が眺めている。これがハサンとの出会いだった。ニコニコとやさしく微笑みながら「そこにある私の家に来ないか」と彼。こんな岩だらけの高台にどう見ても家などない。が彼の指差す方を見ると確かに扉があるので、私達はその笑顔を疑わず中へ入った。
ベージュ色の不格好な階段を2・3段降りると、岩をくり抜かれたそこには大きな居間があり、キリムとじゅうたんがバランスよく敷き詰められていた。彼は奥の庭で農作業をしていた奥さんを呼び、私達はチャイを飲みながら話をした。ハサンは奥さんと娘さん2人の4人暮らし。家はハサンの、この部屋のキリムやスカーフは奥さんの手作りだという。私がついその美しさに見とれていると、ハサンはスカーフを一枚取り出し、私の頭にクルクルと器用に巻き付けながら「トルコ人みたいだ」とやさしく笑った。カッパドキアの雄大な岩峰や地下都市は見事だったが、そのどれより私にはハサンの家が素敵に見えた。唯一の後悔と言えば、例のごとく上手く気持ちを伝えられなかったことだろうか。
反省の甲斐なく、その失敗は続いた。カッパドキアの観光名所を回るツアーでのこと。参加したのは、西洋人のグループと関西の新婚さん、それに韓国人の子だったのだが、私達は声をかけてきた新婚さんとそのまま4人で行動してしまった。結局、西洋人でも日本人でもない韓国人の子はどこでも一人でポツンとしていた。それをずっと気にかけながらも何もできなかった私は、最後に降りたキノコ岩で思いきって彼女に声をかけた。私の「写真撮ってあげるよ」の一言に彼女は本当に嬉しそうに微笑み、日本語で「アリガトウ」と言った。同じアジアの人間なのに、私がまともな英語を話せないばかりに、いやその不様さを隠そうとしたばかりに、彼女に気の毒な思いをさせたことが申し訳なかった。
その後、彼女と話した短い時間の中で、私は大切なことに気づいた。実は私達の間に流暢な会話など、まったく必要なかったのだ。僅かな言葉だけで気持ちは確実に伝わるのだから。
結局、私達はカッパドキアに3泊し次の街を目指した。予定ではこの後はパムッカレだったのだが、食あたりとは言え、バス移動にすっかり自信をなくした私は、途中コンヤで降りることにした。
コンヤのオトガルから街まではトラムで20分。さすが第2の都市、交通の便もよく、店もかなり多い。だが、この開けた環境が逆に災いし、ホテルが見つからないのだ。私達が立ち往生していると、アハという二十歳位の少年が話し掛けてきた。そして、しばらくすると何ともグッドなタイミングで伯父にあたるオスマンが現れた。オスマンは今までに会ったトルコ人とは比べ物にならない程、日本語が流暢で自分がいかに安全な人間なのかを説明しながら、私達を安宿まで案内した。「自分のオフィスで食事をしよう」という彼の誘いにOKしたのは、ハサンとの不思議な出会いがあったせいだろうか。何となく偶然に身を任せたい気分だったのだと思う。
しかし、オスマンはじゅうたんやだった。その夜、彼はアハに次から次へとじゅうたんを広げたり畳んだりさせながら、何時間も仕事への熱い思いを語った。売り込みがないだけで私は彼をただの熱いビジネスマンだと信じていたが、今になれば不自然な出会いも偽善的な考えも、すべて計算ずくめだったように思える。まあ、この予想がズバリなら、やはり彼は真のビジネスマンなのかもしれないが。
●コンヤ〜パムッカレへ
少し薄汚い宿ではあったが、ホテルの人は親切だった。チェックアウトが済むと私達を無言でバス停まで送り、最後は固い握手で別れた。バスがコンヤを出発し、今日は6時間だと気合いを入れた時だ。今度はさっきまではしゃいでいたトルコ人の少女が私の目の前で嘔吐。それはバスのシートやじゅうたんを汚しただけでなく、私のジーンズにまで飛んできた。私は無視したい気持ちと戦いながらも、数日前の辛さを思い出し、ビニール袋とおしぼりを少女のお母さんに手渡した。が、どうだろう。すみませんもなければ、ありがとうもない。しかもガイドまでが見て見ぬふりだ。この国の人間はなんて無礼なんだ。トルコ人に少し幻滅した。それでも私と少女は6時間を無事に迎え、バスはデニズリに到着した。
オトガルの向かいにある30ミルヨンの宿は、決して居心地がいいとは言えないが、外の景色が賑やかな分だけ無気味さも和らぐ。その日はデニズリの街を散歩している途中偶然、女性からは花を、男性からはお菓子をもらった。トルコ人は私達にとって善なのか。それとも悪なのか。
翌朝、私達はミニバスでパムッカレの石灰棚に向った。噂通り、水が引けているものの、幾重にも広がる石灰棚の白は本当に美しい。私達は水の溜った場所を選ぶように、石灰のヌルヌルを裸足で踏みしめながら歩いた。頂上近くになると、のどかなパムッカレ村が小さくなっていくのが見えた。
●パムッカレ〜エフェスへ
セルチュクの宿はもう決めていた。一人US8ドル。おじいちゃん、おばあちゃんが経営する日本人に人気の宿だ。私達がその前まで行くと、テラスには既に一人旅らしき日本人達が集まっていた。これは私の偏見かもしれないが、一人旅の女性は経済的にも精神的にも自立していて、対する男性は内向的でややオタクっぽい気がする。少なくとも私の出会った人はみんなそうだった。妙にモジモジしていたかと思うといきなり自慢話を始めるタイプだ。例のごとく、ここでもモジモジ君達が楽しげにしているが、私達には無駄な時間などない。残念だが宿の夕食を断り、この街をまた自分達の足で一通り歩くことにした。
街外れの広場にあるレストランに辿りつき、ビールを飲みはじめたのは夕方だった。旅の難関だったオトガルにももう用はない。そう思うと開放感と同時に不思議な寂しさを感じた。広場の向こうのチャイハネではおじいさん達の談笑する姿。その横では今にも崩れそうな石柱の上にコウノトリが巣を作っている。トルコに来て、これ程のんびりと過ごしたことがあったろうか。私達は人のよさそうな店員と一緒に遅ればせながら、内陸最後の夜を満喫した。
翌朝はおばあちゃん手作りの朝食をUS2ドルでいただき、エフェス遺跡とマリアの家を観光した。トルコ内陸の旅は、そのどこもが印象的で本当に美しい。これに比べると、日本人定番のショッピング目的の旅行はなんて薄っぺらなのだろう。
出発直前、私はエフェス最後の思い出に宿のおばあちゃんと一緒に写真を撮ることにした。満面の笑みで私の肩を力強く引き寄せるおばあちゃんを見ていると、なぜか無性に寂しくなった。「もう会えないけれど、どうかお元気で。」別れ際、私は心の中でそう呟いた。
●イスタンブールにて
空港には宿のマネジャー、ビュレントが迎えに来て相変わらずのハイテンショントーク。一般道を130kmで走るスピード狂ぶりも健在だ。宿ではパピがしっぽを振りながら、いつも通りのろのろ走り寄ってくる。不自由ではあるが、何も変わらないこの生活が懐かしく思えた。
翌日、私達はイスタンブール観光の目玉であるトプカプ宮殿に行った。そこには地元の小学生の団体がズラリ。ハローハローとみんなが笑顔で手を振ってくる。その一人一人に応えながら、今度はカメラを向けてみると、次は私の番と言わんばかりにどんどん子供が集まってくる。私がずっと探していた被写体はこんなに近くにあったのだ。今まで怒られたり、金を要求されたり。楽しみにしていた写真を撮ることにうんざり気味だった自分がバカらしく思える。イスタンブールの子供達は外国人である私達に好奇心を示し、一緒に写真を撮りたいのあげくにはサインまでねだる始末。私の人生の中でこれ程人にもてはやされた瞬間があったろうか。自分はアイドルか、はたまた皇族かと錯角する程の大騒ぎだった。
子供達と別れたその時だ。隣からトルコ人の男2人が話し掛けてきた。ムスタファと仮の名を弟としよう。歴史に興味がある弟は友達ムスタファの仕事のコネでよくここへ来るのだが、日本語の勉強に私達を案内したいというのだ。最後という気の緩みと感じのよいトークにのせられ、私はそれを承諾した。そして、一通り宮殿を見終えるとお兄さんを紹介したいという二人の提案にも素直に応じ、歩きだした。「ここだよ。」突然、弟が指差した場所は私達の宿のすぐそばにあるじゅうたんやだった。兄は待ってましたとばかりに「どうぞお掛け下さい」と言い、弟はチャイを出すとその場から消えた。一言二言話すと沈黙の時間ができ、話題の乏しさからつい目の前の商品の話をしてしまう。まずい、これでは相手の思う壷だ。とその時「夜ここで飲みませんか」と兄。私達はまた会う約束をして別れた。
約束の時間がきたが、どうも気乗りしない。当たり前だ。私達はおそらくカモにされるのだから。そう思うと急に面倒になり、自然にパピとバイトのメンデレスと一緒にいる時間を選択していた。どれくらい経ったのか。例の兄弟のコトをすっかり忘れかけた頃だった。いつもおとなしいパピが外でワンワン吠えている。心配した私が行ってみると、弟がパピをかまっている姿。弟は私に気付くと怒った顔で「お兄さんと約束したんじゃないの?」と切り出した。「ごめん、道に迷ってさ」と私。「迷うってスグそこじゃん、今から来るつもり?」「ううん、行かない」突然の出来事にそう言い放つと、私は足早に宿に戻った。頭が混乱してるが、騙されたことだけは確かなようだ。人を信じたり、疑ったり、またそんな自分を責めたり。トルコ人と真剣に向き合おうと頑張っていた自分が少し情けない。
最終日、私達は同じ宿の日本人女性客をじゅうたんやのアイハン兄弟に紹介し、彼女達のホテル探しを手伝うことにした。アイハンは「ビュレントとは友達だから」と罰悪そうに言いながら、仕事そっちのけで私達観光客に付き合ってくれた。イスタンブールではいつも近くにいたのに、彼らとゆっくり話をしたのは皮肉にもその日のランチタイムが最初で最後。きっと時間に追われ過ぎて、気持ちにも余裕がなかったせいだろう。ただ、いろいろなことがあったトルコの締めくくりがこの和やかなひとときだったことで私は救われた気がする。
一番楽しくて一番つらいこの旅が終わる時、まだ残りたいという未練も今すぐ帰りたいという失望もなかった。少し清々しい気分でさえあったのは、きっと自分らしく最大限にトルコを満喫したからなのだろう。